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ニホンジカのことに関わっているとオオカミの事がよく話に出てきます。その度に思い出す事があります。

私は長野県佐久市内山の生まれで小学校は内山小学校という小学校でした(今は統合されて廃校となりました)小学校の郷土資料室に一枚の古い絵が飾られていました。それはオオカミに襲われている父親を亀松という少年が鎌をオオカミの口に差し込み父親を助けている。というものでした。内山小学校ではその亀松と同じ年令(小学五年生位だと思うのですが)になると佐久市黒田という地区にある亀松の碑までクラスで行きその前で作文を読み亀松のようになるようにとお参りをしたのを覚えています。何故そんなにハッキリと覚えているかというと、私は亀松にむかって読む作文を書き碑の前で読んだからです。その一文も何となくですが覚えています。

オオカミの話が出る度に思い出される、亀松と古びた絵。いつも調べたいと思いながらなかなか時間がなくて今日はインターネットですがヒットしたのでそれをのせておきます。時間をかけて調べたい事の一つです。

「天明八年十二月、湯島一丁目の版木師平五郎が出版した「御免亀松手柄孝行記」に、このたび信州佐久郡内山村百姓惣右衛門が狼に噛みつかれた際、まだ幼い息子の亀松がすぐさま狼に抱きつき鎌で殺した次第が載せられている。
元遠藤兵右衛門様御支配所 当時佐藤友五郎様 信州佐久郡内山村                               百姓惣右衛門の倅亀松 十一歳 この内山村(長野県佐久市内山)は信州と上州の国境にある破風山の麓にあります。  惣右衛門は高一斗ばかりの田畑を所持し、家内五人暮しですが、この九月二十五日に自宅より三町ばかり離れた逢月(あいつき)という所へ猪鹿防ぎの番小屋へ息子の亀松を連れて行きました 。 亀松は草を刈り、惣右衛門は小屋で火を焚いておりましたところ、惣右衛門の後ろから狼が来て彼の足へ噛みついたので後ろを振り返ると、狼は顎までしっかりと食いついています。惣右衛門は狼の耳をつかみ大声を上げると、亀松はこれを聞き駆けよりました。持っていた鎌を狼の口に入れようとしましたが、刃の付け根から折れて役に立たちません。惣右衛門の持っていた鎌を取り、今度は狼の口に柄の方をねじ込んでうしろに引き倒し、二人がかりで抑え込もうとしましたが、惣右衛門は数ヶ所噛まれていたので動けなくなってそこに倒れました。狼が起きあがろうとするところを、亀吉はそこに在った石を狼の口に押し込み、鎌の柄で狼の歯を叩き折ろうとしましたが、尚も狼は噛みつく様子なので、亀松は親指で狼の目をくりぬき、鎌の柄を打ちこんでようやく狼をしとめることが出来ました。 惣右衛門は所々噛まれていましたが、急所では無かったので、亀松は父を介抱しながら家へ連れて帰り、翌日より治療をしたら次第に快方へ向かったということです。 この亀松は年齢よりは小柄で身体が弱そうに見え、なかなかこのような働きをするようには見えません。普通なら驚きのあまり逃げ出すところ、親の一大事であると思い、幼いのにも似合わない働き振りは誠に古今の大手柄と云うべき事です。 このような年若い身であってもこのような働きをするのです。ましてや大人であればなおさらの事でしょう。誰しもこのように心がけたいことです。 亀松が父が狼に出くわしたとき、狼をしとめ父を助けたことは幼年にも関わらず奇特なことであると云う事で銀二十枚のご褒美が下されました。これは先ごろお代官大貫治右衛門様が巡察に出た際、このことを聞き当人も呼び寄せて次第を尋ね記録してご褒美を下されたということです。これによって誠に前代未聞、世間の親孝行の教えにしようと、板本に仕立ててご免蒙り売り広めている次第です。                              明神前通湯島一丁目板元版木師  平五郎興継(琴嶺)云う。本文の大変拙いのを、そのまま載せたのは事実を伝えようと思ったからである。この版本を今でも持っている人もあるかもしれない。しかし、紙数が僅か三枚ばかりであるので、永く世に伝わるのは難しいだろう。このことを残念に思ったので今日の集まりの題材にした次第である。原本の体裁は世間で「サゲ」などと云って巷間売られているものとは異なり、地名・人名も正確で、また「ご免」の二文字を冠しているのも珍しい。孝子の事を印刷して売り歩くのは、これが始まりであろうかと父(馬琴)は云っている。さらに思ったが、この亀松のことは「孝義録」には載せられているのだろか。父もわからないと云っている。

作堂)。」

http://www5b.biglobe.ne.jp/~benchang/index.htm「兎の園」
より引用

オオカミと私 孝子 亀松の思い出
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