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​ 私達の生活はとても便利になってきています。先人達の苦労と知恵により、明るく、便利、早く、安全な生活が送れるようになってきています。小さなことで言えばテレビのチャンネルさえ動かずに変えることが出来るようになりました。お風呂も火を熾さなくても蛇口をひねれば適温が湯船に溜まります。このような例は書き並べればきりがない。

けれど、便利と引き換えてしまったものを思い返したことがあるでしょうか?

私達は、人と言う生物だということ。この身体は、生きるために機能的につくられている。

その機能を使っているでしょうか?

二足歩行になったことで進化した大脳は発明する大きな力を持っています。その可能性は計り知れない。いっぽう、大脳は「我慢」という理性の部分も持っていると私は思います。どこまでも便利を追求し、いつしか便利に呑み込まれていったとき、便利から危険が生まれてくるように思えるこのごろです。その一つの例がオートマチック車だと私は思っています。私が免許を取得した頃はマニュアル車だけでした。ハンクラが出来なければ発進しない。ギアを入れ間違えればエンジンのとてつもない音がする。急ブレーキを踏めばエンストする。ブレーキとアクセルを踏み間違えればエンジンが吹き上がる。エンストしない、発進しやすい便利さは自分の身体が持っている不自由さを忘れさせてしまったのではないでしょうか?私達は、生物だということさえ忘れてしまわせているのではないでしょうか。

生物は衰えて生きます。衰えて朽ちて消えていきます。そして次に生命を繋いでいきます。繋ぐはずの生命を、便利という言葉で失ってしまってよいのでしょうか?便利を理性で我慢する。自分を知ることで我慢すること。衰えることは負ではなく正であり生であると私は思うのです。

そして、その衰えを許してくれる繋がりがつくられていくことを祈ります。

便利を理性で我慢する。衰えを受け入れられる自分と許してくれる社会