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​父が認知症であるということがハッキリしたのは父が75歳の10年前、最初の症状は老人性の欝のような状態からでした。

最期を迎える頃には要介護5で発語も少しになり、言葉のキャッチボールは困難状態でした。

認知症の症状が進むことにより、父の欲求や感情は、ストレートに表現されるようになっていきました。我慢、理性などという言葉はどこか異なった次元に置いてきているようでした。

「判断」などという言葉も父の中にはなくなっていきました。

では、誰が父のことについて判断するのか?私の家族の場合は、私がその役割を担うことになりました。

自宅にいるときにはケアマネさんや訪問看護士さんと、病院では医師と、施設では相談員の方と相談して父の身の回りにおきること全ての判断がかかってきます。そう、決めるのは私なのです。父親のことなのに、父が決めるのでなく、父のことを私が決めていくのです。そして最後の言葉は一つです「私が責任を持ちますので、お願いします。」

父を施設に入れることも、精神科で隔離することも、その以前の自宅においていくことも、徘徊して行方がわからなくなったときに警察を呼ぶことも、警察犬を委託することも、放送をかけてもらう事も・・・。書き出せばきりがありません。小さなことから大きなことまで父のことを私が決めていきます。

そんな日々を過ごしていてある時気がつきました。介護の責任者になるということは、相手の命の最期を引き受けているのだということに。介護が終わるときは父がこの世から去るときなのです。父にどういう死が訪れるかなど皆目見当がつきませんでしたが、徘徊して歩く以上帰って来られなくなること、事故にあうかもしれないということなどを毎日考えていました。頭のから離れることはありませんでした。

肺炎になったときのことでした、右の肺は真っ白で父も苦しそうでした。医師からは「もって5日くらいでしょう。」と言われました。そして「治療しますか?どうしますか?」と聞かれました。通常なら医師もそんなことは聞かないでしょう。「肺炎ですから、入院して点滴をしましょう。」とか、「投薬で大丈夫ですよ」と言ってくれるでしょう。けれど認知症、要介護5は違うのです。「どうしますか?」なんです。認知症の要介護5の場合、点滴をしても点滴を自分で抜いてしまいます。抜かないようにするには拘束するしかありません。手と胴体をベッドに固定して動けないようにして点滴をするのです。体調が悪いうちはあまり動かないので点滴も入っていくかもしれません。けれど、抗生物質が効き、動けるようになってくれば、当然動きたくなります。拘束されていることは苦痛です。点滴を抜こうとします、叫びます。「肺炎だから我慢して」などという言葉は伝わらないのです。認知症の人は「嫌なものは嫌」なんです。医師からの言葉は「途中まで点滴でよくなったとしても、あまりあばれられると点滴をはずさなければならなくなります。そうした場合、また肺炎の症状が進み苦しくなり、点滴のため拘束する。の繰り返しになります。ただ何もしないよりは生きることを延ばせる可能性はあります。」

私は、迷いました。一日でも長く生きていて欲しい。と思いました。けれど父なら・・・

父が今の父を見たならばなんというだろう・・・。これまでの父の生き方や父の言葉を思い出していました。その時、診察室にいた看護師が言ったのです「入院して拘束して点滴して万が一抜けても、私達はいつも見ているわけじゃないから責任取れないですよ。(表現そのままではありませんが)」と、そして聞こえよがしに「先生、病室ありませんから」と。

私は、医師に聞きました。「本当に病室ないんですか?」と、医師は困った顔で「無いと言う事はないんですが。ちゃんと設備の整った病室がないということで。」

私は「これが父の最期のときだとしたら、こんな病院で白い壁に囲まれて死なせてだまるか!」と思いました。

そして決断したのです。「施設に帰ります」と。要介護5になってお世話になってきた特別養護老人ホームにお願いしようと。付き添いで来ていてくれ診察も同席していてくれた特養の看護師さんに「お願いします」と頭を下げました。特養に帰るということは病院のような医療行為は受けられないことを意味します。点滴をするよりも父の死期を早めるかもしれないということだとはわかっていました。けれど、病院の対応も私の決断の一要因ではありましたが、一番考えて事は「父はどう死を迎えたいのか?」だったのです。「父ならきっと、色々射したり抜いたりしないで自然に任せて欲しい」と言うだろう。と、思ったからです。山登りが大好きだった父は他の生き物たちが自然の中で朽ちていくように、自然に戻っていくことを望むだろう。と

特養の看護師さんは「わかりました。」と答えると特養に電話をかけてしっかりした声でこう仰いました。「章さんは戻ります。」と。

そして戻った特養では相談員の方から「戻っていただき、有難うございます。最善を尽くします。」と。沢山の介護師さんが声を父に声をかけてくださいました。「章さん、一緒にがんばりましょう!」と。

父の介護が始まってからいつも考えていた父の最期をどう迎えさせてあげられるのか?

その時の肺炎のときは回復という結末でしたが、たとえ自分の親であったとしても自分の以外の生命の終わりを決めなくてはいけない。これは、重いことでした。もしかしたら私の思い違いかもしれない。父は拘束されても一日でも長く生きたいと思ったかもしれない。そんなことをグルグルと考えました。けれど医師と話す診察室で求められるものは、感情ではなく相談でもなく判断なのです。判断して答えを伝えたなら「判断した責任は長女である池田雅子にあります。病院の責任にはしません。」という確認がとられ診察室を出ます。その診察室の外には次の患者さんが待っています。そこで立ち止まっているわけにはいかないのです。付き添いの特養の看護師さんと特養にかえると相談員の方との打ち合わせがあります。

父の様態が急変したらどうするか。夜中だったらどうするか?明け方ならどうするか?細かいことを一つ一つ決めていき、最後に私のサインをします。決定したのは、私です。

と言う事です。

すべてを終えて特養の外に出たときは暗くなっていました。買い物をして帰らなければなりません。夕飯を作らなければ・・・。

ふらふらしながら、買い物をしました。一人でいるよりも、お店にいるほうが気持ちが、まぎれました。家に帰るのは、重過ぎました。次のことを考えなければならないのですが、その前に一呼吸おきたかった。置ける場所が、欲しかった。
父は点滴一本することもなく口から少しずつ食べ物をとり、その10日後には回復したのです。その間、何回も危険なことがありましたが特養のスタッフさんたちの介護と思いで乗り越えました。奇跡的なことだと医師からも言われました

そんな結末を迎えた父の肺炎騒動でしたが、それから一層父ならどう考えるだろうか?どのように死を迎えたいと思っているだろうと考えるようになり、肺炎から5ヵ月後の父の最期の時を迎えました。

自分の死でさえどう迎えるかわからない。けれど、いつも自分はどう最期を迎えたいかを考えるようになりました。そして伝えておかなければならないと思うようになりました。それは、ネガティブな考えではなく、人としてどのように生きたいかを考えることだと思うようになったからです。

その様なことを考える機会を与えてくれたのは、やはり父なのです。人という生物がどう老い、この世を去っていくのかを父は見せてくれました。

私は、死をどう迎えるか?